生物サンプルの「分析」

  ぼくのデータはよく、「やりすぎだ」とか「ここまでやってどうするの」といった評価を頂きますが、 民間でここまでのデータを出せるヒトはいないのだ、と自分勝手に解釈しております (単価に見あわないので、その能力はあっても誰もやらないだけ、とはあえて考えませんw)。
  なかには「自己満足に過ぎない」とか、同意のもっと品のない表現で評価する同業者もいます。 ぼくには彼らが過去にそこまでの仕事を任されたことがないか、 または自身のデータを使って報告書をまとめたことがないのかもしれない、なんて風に考えています。 ことによるとぼくのデータがスタンダードになると彼らにとっては困難な状況になるため、 批判的な態度になるのかもしれませんね。

  生物サンプルの「分析」費用は年々下落しています。この仕事を続ける意欲を失いそうなほどです。
  その大きな理由はたぶん公共事業の減少に伴って市場規模が大幅に縮小したこと、 そのため値下げ合戦に拍車がかかったこと、 現行の入札制度では安い業者に落札されるばかりでスキルの評価がなされないこと、 いったん下がった単価を元の水準に容易に戻せないこと、なんてコトがあろうかと思います。
  その挙句、すでに求められる作業単価は損益分岐点をはるかに下回り、 「分析」とは名ばかりのデータが市場に出回っているのが現状です。 一個人であるやまだがまともなデータを出そうとして赤字になるんですから (時給換算で500円を切ることがしばしばです)、 経費のかかる一企業の社員が同等のデータを出せるはずがありません。

  何のために大量の生物サンプルを採取し、その生命を奪って実験室へ持ち帰るのか、 振り返ってみる必要があります。

  生物は「種」というユニットによって構成されている、というのはかなり有力な共通認識だと思います。 この「種」に応じて食べるものが違ったり、生殖の時季が違ったり、住んでいる場所が違ったり、 大きさや形、色や模様が違ったり、市場価値が違ったりしています。 同じ仲間同士がたくさん集まって生活するものや、雌雄でペアを作って住むものがいるほか、 孤独を好むものもいます。まったく違う種類同士で共同生活をするものもたくさん知られています。
  古い分類学では「種」はもっぱら外部形態で区別されていましたが、徐々に体の内部の構造をも見るようにもなり、 最近では酵素や遺伝子によって識別された研究成果も反映されるようになってきました。 DNA の検査ができない個人事業主は仕事ができなくなるのか、なんて心配していた同業者もいました (コレはたぶん杞憂でしょう)。

  「種」は属ごとにまとめられ、近縁の属同士で科をつくり、目をつくります。 いくつかの目がまとめられて綱になり、門という最も大きな括りをつくります。
  市販の図鑑類にはあたかも決まりきった約束事のように、この分類が記されていますが、 実際には未確定の暫定的な結果にすぎません。地球上に生息するあらゆる生物のうち、 我々人類はまだその 1% にも満たないものしか発見できていませんし、 発見されたすべてがじゅうぶんに研究されたわけではありません。 生物の分類とは、そんなごく部分的な知識から全体像を推定しているに過ぎないのです。
  図鑑によって違う学名が使われていたり、違う分類になっていたり、というのはそんな事情があります。 なかには自説に強く固執する研究者もいるそうですから、事態はなかなか複雑です。

  日本には生息していないと思われる Helmetophorus という多毛類がいます。 南極から発見された rankini という種のみが Olga Hartman によって1978年に記載されました。
  当初はオトヒメゴカイ科に分類されていましたが、1985年に和名のない独立した科 Helmetophoridae がこの1属1種のために設立されました。オトヒメゴカイ科と一緒にサシバゴカイ目ゴカイ上科に分類されますが、 Helmetophorus rankini は1991年にはハボウキゴカイ科へ移されました。 この当時ハボウキゴカイ科はハボウキゴカイ目に分類されていましたが、 現在はフサゴカイ目ミズヒキゴカイ亜目に移動されます。
  そして2016年現在、Helmetophorus はミズヒキゴカイ亜目クマノアシツキ科に分類されています。

  また、神戸港の沖、水深 80m ほどの海底から採取されたサンプルが Palmyra aurifera Savigny 1818 と同定され(ただし"?"付きで)、1885年に報告されました。 太平洋西部の浅海域に生息する1属1種の多毛類ですが、これ以降、日本では報告例がありません。
  1912年に飯塚啓によって書かれた日本産多毛類のモノグラフには、その経緯が簡単に記されています。 この種は当時 Palmyridae という和名のない科に分類されていましたが、この1属1種のみを含む場合と、 日本各地で普通に見られるタンザクゴカイなどを含む場合とがあります。 現在はタンザクゴカイとナガタンザクゴカイはタンザクゴカイ科に、Palmyra aurifera はコガネウロコムシ科に置くようになりました。ともにサシバゴカイ目に分類されますが、 コガネウロコムシ科はコガネウロコムシ亜目(あるいはウロコムシ亜目ないし上科)、 タンザクゴカイ科はゴカイ亜目(ないし上科)に置かれます。 ところで、この "Palmyra aurifera ?" と報告されたものは実は誤同定で、 その正体はコガネウロコムシ科の "Pontogenia mcintoshi Monro 1924" だとする説もあります。

  分類が変遷を辿った2例を挙げましたが、似たケースは多数あります。

  民間調査のデータによく見られる例として、科や目などの上位分類でとどめられた項目がありますが、 実際にはどの程度信用できたものかわかりません。単一種なのか複数種なのか、 複数回(地点)にわたって出現しているものがすべて同じものなのか、 古い文献を用いていて現在はこれに該当しないものが含まれている可能性、新発見のものが含まれている可能性、 本来生息していない何らかの理由で突然現れたものがこの中に”封印されている”可能性、すべて不明です。
  ぼくのデータも、提出先によっては上位分類でくくられることがありますが、 それはまだその中身を追うことができます。データに責任の所在が明記されないのが不満といえば不満ですが。 ただ、独り歩きを始めてしまったデータは、もうどうしようもありませんね。
  かつての勤め先で水産研究所に納めていた報告書には、ぼくとその部下を含めて、同定者氏名を明記していました。 特定環境下で値が変わる可能性の高い検量結果(湿重量ですが)を含んでいましたから、 この措置は有用だと思います。

  まぁもっとも、ぼくが心の底から訴えたいのは、適正な単価を確保することなんですけどね。
  入札制度を見直すとともに、発注者が単価を決める変な風習も改めるべきでしょうね。 質の高いサービスを得るためには高い支払いが必要だと、お役所も理解するべきです。 経費削減のためイタズラに単価を削ることで質の低いサービスしか得られないのでは、 それこそ本末転倒というものです。

01 October 2007; rewright 27 July 2016