同定するという作業

  生物は適切な書式の論文でその特徴を記載され、命名されて、はじめて新種となります。 学名の後に続くのが、その論文の著者と発表された年(論文が掲載された学術雑誌の出版年)です。 国際的に統一されたルールがあり、これに従って論文は執筆されます。

国際動物命名規約(Wikipedia 日本語版へのリンク,以下同様)
国際藻類・菌類・植物命名規約
国際細菌命名規約

  命名規約に定める以外にも、論文の形式には様々なスタイルがあり、 それは対象となる生物のグループにも依りますが、 昔の論文より最近の論文の方が事細かに特徴や命名の由来などを記述しています。

  日本各地に生息するミズヒキゴカイの正体を確かめようと思い、 いくつか古い論文のコピーを取らせてもらったのですが、最近10年のものと読み比べても、 圧倒的に情報量が少ないため決め手になるものがありません。 多くの研究者が、記載の元となった標本(タイプ標本と呼びます)を実際に見なければダメだと言う理由が、 まさにここにあります。ところが、最近の論文では標本をどこに保管してあるか明記するのが当たり前ですが、 古い論文にはこれがありません。ぼくの手元にある1879年のドイツ語の論文には、採集者は書いてあるのですが、 どこで採取されたのかは特定できず、その標本がどこに保管されているのかは皆目わかりません。 そしてまた、その特徴の記載もじゅうぶんではないのです。まったく悪戦苦闘しております。

  そんなヤヤコシイ存在はひとまず棚上げしておいて、標本と記載論文がシッカリしたものを今ちょっと想定してみます。
  できればその論文の記載文とスケッチとで、自分の手元にある標本とどこかよそに保管されているタイプ標本とが、 まったく同じ特徴を備えていると判断されればベストです。 これで手元の標本はその論文の種と同じものであると「同定された」ことになると思います。
  もしこれが叶わなければタイプ標本を借り出して比較することになるのでしょうけれど、 記載論文を書いたことがない民間企業の一技術スタッフにそんな貴重品を貸し出してくれるわけがありません。 この場合は迷宮入りとなるはずですが、いくつか兼ね備えた特徴によっては同じ属であるとか、 同じ科であるという判断がつくかもしれません。

  その一方で、同じ仲間のものが日本国内に多数生息している場合がよくあり、 一編一編の論文を細かくあたるのは効率が悪い場合があります。こんなとき、 そのグループの検索表というものがあると便利です (習慣的に検索表と呼びますが、形式上「表」ではありません)。 特徴を対立するように並べ、順に追って行くと該当するものに辿り着くように作られたもので、 英語では key と呼びます。例えばこんなカンジです。

1a 明瞭な前口葉(頭部)をもつ; 副感触手を1対ないし多数もつ ・・・・・・・・ 2 へ進む
1b 明瞭な前口葉をもたない; 副感触手を1対もつか,またはもたない ・・・ 3 へ進む

2a 剛毛は単剛毛のみ ・・・・・・・・・・・・・・ ミズヒキゴカイ科
2b 剛毛は単剛毛と複剛毛の両方 ・・・ クマノアシツキ科

3a 体尾部腹面に楯状板をもつ; コイル状のエラを体末端に多数もつ ・・・・・・・ ダルマゴカイ科
3b 楯状板をもたない; エラをもつ場合,口腔域内に収納されている ・・・・・・ ハボウキゴカイ科

  フサゴカイ目ミズヒキゴカイ亜目のうちの4科です。 この検索表からは意図的に2科を外してありますが、 市販の図鑑では日本産浅海域で知られているものしか扱っていないため、 これとよく似た状況となっています。 上の検索の場合では、日本から正式に報告のない Fauveliopsidae (ぼくは過去に何度かデータとして提出していますが)はハボウキゴカイ科へ、 海藻表面などから採集される小型種のクシイトゴカイ科はミズヒキゴカイ科へ、 それぞれ誤って辿り着く可能性があります。
  それと、なるべく判りやすく書いたつもりですが、 多毛類を見慣れていないヒトには理解不能な単語がいくつかあると思います。 実際、慣れていないために誤った検索結果に辿り着くこともよくあります。
  検索表は記載論文に辿り着くためのツールであり、検索結果のみを判断材料とするべきではないのですが、 しばしばこれで了としてしまうヒトもいるみたいですね。辿り着いた先の記載文をよく読んで検討しないと、 誤って辿り着いていたとしても見落としてしまいます。

  分析仕事の内容によっては、手元に標本を残せないことがよくあります。 同定しきれなかったものを標本として手元に残せないと、 次回調査で出現した場合に同じものかどうか検討できません。 できれば、日本産種として既知のものと同水準の観察項目をスケッチしておきたいところです。 ものにもよりますが、ぼくは3〜4時間あれば1標本の簡単なスケッチをとることができます (論文に使うための精緻なスケッチとなると、もうちょっと時間をかけたいところです)。 いくつか簡単なコメントを一緒に残しておくのも有用です。
  実際には手元に残した標本と新しい標本を比較する手間よりは、 いろいろと検討した結果を書き込んだスケッチの方が短時間でチェックできて便利な面があります。 同じ手間を二度かけないという点では効果的ですね。
  ぼくの手元にはこうして洗い出した未記載種と新記録種の標本やスケッチがかなりたくさんあるんですが、 仕事の性格上、ぼくの名前で公表することはできません。せいぜいクライアントに提出するデータ表に 「未記載種/新記録種の可能性アリ」とコメントするくらいでしょうか。 ぼくに限らず、業界内に埋もれている情報はかなり膨大な量になるだろうと想像します。

  内湾域での調査が主体だった頃、民間の業者はここまで手間をかけずに済んでいたと思われます。 生物相の複雑さや多様性などは考慮せず、指標種の数や量を気にかけてさえいれば良かったんですが、 最近は事情が違います。大規模事業主が内湾域から外海へ面した海岸へ開発の主体を移し、 生物調査の内容ががらりと様変わりしてしまいました。
  もう特定の種が優占し、その指標性で環境を評価できるような状況ではなくなりました。 多様性は著しく増加し、旧来の分析単価体系では収まりがつかないほど出現種は増えているのが実態です。

  事ほど左様に手間のかかる仕事が、生物を同定する、という作業です。
  そして、これをシッカリこなさなければ、次のステップへ進められない重要な作業でもあります。 大手事業主なり、役所なりが、そろそろこの辺の重要性に気付いて欲しいものです。 安価に落札して下請けを圧迫し、過去データの流用や、データのねつ造、改ざんを強いるなんて、 よく似た状況が食品、運輸、建設業界でさんざん取りざたされてきているのに、 これだけ環境問題に関心がもたれるようになっても、 まだまだ海洋調査業界は職業倫理感が低いなと思います。

01 October 2007; rewright 27 July 2016